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神戸地方裁判所 昭和41年(ワ)1032号 判決 1969年8月07日

原告

角馨

被告

箱根登山鉄道株式会社

主文

被告は原告に対し金二九四万九、六〇七円および内金一六八万三、三六七円に対する昭和四一年一月二日から、内金一〇万円に対する同年九月一〇日から、内金九〇万六、二四〇円に対する同四三年九月三日からそれぞれ完済に至るまで各年五分の割合による金員を支払え。

原告のその余の請求を棄却する。

訴訟費用はこれを二分し、その一は原告の、その余は被告の負担とする。

この判決は第一項に限り仮に執行することができる。

事実

第一、当事者の求めた裁判

一、原告「被告は原告に対し金六八八万〇、七二〇円および内金六一八万〇、七二〇円に対する昭和四一年一月二日から、内金一〇万円に対する同年九月一〇日から各支払済みまでそれぞれ年五分の割合による金員を支払え。訴訟費用は被告の負担とする」との判決ならびに仮執行の宣言。

二、被告「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする。」との判決。

第二、原告の請求原因

一、事故の発生

訴外神之田義隆は、昭和四一年一月一日午後一一時三五分ごろ、営業用大型バス(愛2い八八九号。以下本件バスという。)を運転して神戸市灘区下河原通一丁目六番地先国道二号線道路上を東進中、おりからその前方を同方向に進行していた原告の運転する営業用乗用車(神戸五け一五〇五号。以下本件タクシーという。)の車体右側後部に本件バスを追突させて本件タクシーを約七・八メートル左斜め前方へ跳ねとばし、よつて右追突の衝激により原告に対し鞭打ち症および腰部捻挫の傷害を負わせた。

二、被告の責任

(1)  被告は当時本件バスを所有し、これを自己のため運行の用に供していたので自賠法三条の責任がある。

(2)  被告は自動車運送を業とする会社であつて当時訴外神之田義隆の使用者であつたところ、本件事故は右神之田が自動車運送業務に従事中、その前方注視、車間距離保持、安全運転の各義務違反の過失により惹起されたものであるから被告は民法七一五条一項の責任がある。

三、損害

(1)  休業による収入損金一四〇万一、〇七五円

原告は本件事故により頸椎鞭打ち症、腰部捻挫の傷害を負つたため事故以来ほとんど就労不能の状態にあつて、後遺症の認定のあつた昭和四三年九月二日まで計九七五日休業したのであるが、この間の休業による損害として、原告の勤務していた訴外クレセントタクシー株式会社における本件事故発生前の平均日給金一、四三七円を右休業日数に乗じて得た金一四〇万一、〇七五円の得べかりし利益を失つた。

(2)  後遺症による逸失利益金四一六万六、五九三円

原告は本件受傷による後遺症について昭和四三年九月神戸東労働基準監督署において労災保険法に基く障害等級五級と認定されたから、労働能力喪失率は七九パーセントである。そこで原告の前記平均日給金一、四三七円を基礎として、右の労災等級(自賠法施行令別表後遺症等級表と同じ)に照らし労働能力喪失期間は少くとも一〇年を下らないものとして前記各事実を基礎に計算した一〇年分の喪失金額から年五分の割合による中間利息をホフマン式計算により控除して得た金四一六万六、五九三円が右後遺症により原告の失うべき逸失利益である。

(3)  入院、後遺症による慰藉料金一五〇万円

原告は本件受傷のため日赤病院および神大附属病院に計三回通算六二日間入院し手術をうけたほか、後遺症の認定をうけた昭和四三年九月二日まで長期にわたり通院治療をうけ自宅療養を続けたが、この間形容し難い心身の苦痛を味わつた。さらに頭痛、眼痛、嘔吐感、頸椎の不自由等の後遺症のため生涯不具者として苦しまなければならない。右苦痛を慰藉すべき金額は一五〇万円が相当である。

(4)  弁護士費用

被告は本件事故による責任を否定し、原告の賠償請求に応じないから本件訴訟を提起するのやむなきに至つたが、原告は本件訴訟について神戸弁護士会所属中島徹弁護士に訴訟委任するとともに、日本弁護士連合会および神戸弁護士会の定める報酬規定の範囲内で着手金一〇万円、報酬は原告の得た利益の一割とする旨の契約を結び、右同日同弁護士に対し金一〇万円を支払つた。よつて、弁護士費用として金七〇万円を要する。

(5)  損益相殺金八八万六、九四八円

原告は訴外神之田義隆より休業補償費として金四、九三〇円および原告の勤務していた訴外クレセントタクシー株式会社から本件事故発生後給料として金一三万二、〇一八円を受けとつたほか、自賠法に基く後遺症補償費七五万円を受けとつたので、右計金八八万六、九四八円を前記(1)ないし(3)の各損害から控除する。

四、結論

よつて、原告は被告に対し金六八八万〇、七二〇円および内金六一八万〇、七二〇円に対しては本件事故発生の日の翌日である昭和四一年一月二日から、内金一〇万円に対しては原告訴訟代理人に右金員を支払つた日の翌日である同年九月一〇日から各完済に至るまで各年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。

第三、請求原因に対する被告の認否

一、請求原因一項について

原告主張にかかる追突事故の発生したこと、右事故により原告が何らかの傷害を負つたことは認めるが、その余の事実は争う。

二、請求原因二項について

(1)被告が当時本件バスを所有しこれを自己の用に供していたことは認める。

(2)の事実のうち神之田の過失に関する主張を否認し、その余の事実はすべて認める。

三、請求原因三項について

すべて争う。

第四、被告の抗弁

一、自賠法三条の免責

被告および神之田には全く過失がなく、本件バスには構造上の欠陥または機能の障害がなかつた。本件事故は後記三のように原告の全面的過失によるものである。神之田は本件タクシーとの間に約二〇メートル余の安全車間距離を保持し、制限速度の時速五〇キロメートル以内で前方を注視しつつ本件バスを運転していたから過失がない。

二、示談の成立

被告は、昭和四一年三月一六日原告に対し治療費金一、九三〇円、休業補償金三、〇〇〇円合計金四、九三〇円を支払うとともに、本件事故に関しては今後当事者双方とも異議、苦情、訴訟等いつさい申立てない旨右両者間で確約し、示談解決した。

三、原告の過失

原告主張の日時、神之田義隆は本件バスを廻送するためこれを運転して原告主張の道路上を制限時速五〇キロメートル以内で東進中、その前方を原告の運転する本件タクシーが同方向に進行していたので神之田は約二〇メートル余の安全車間距離を保持してこれに追従進行し衝突地点付近にさしかかつたところ、進行方向に向かつて左側歩道上に立つて空車待ちしていた客が本件タクシーを認めて手を挙げたので原告はハンドルを左に切ると同時に急停車したが、このような場合停車するタクシーとしては後続車輛の有無を確め、後続車のあることを認めた場合には適宜の措置をとるとともに歩道に平行して停車し、もつて後続車との接触衝突事故の発生を未然に防止すべき注意義務があるのにこれを怠り、右客の停車の合図に気付くのが遅かつたためか後続車の確認、適宜の措置等何んらとることもなく、その客の直前で突如左折し、その車体が歩道とほとんど直角をなす位置で急停車したので車体後部はなお本件バスの進路直線上にあつた。本件バスを運転していた神之田はこれを見て、直ちに急停車の措置をとるとともにハンドルを右に切つたが間に合わず、本件バスの前部を本件タクシーの車体後部に追突させたものであつて、これを要するに、本件事故はひとえに原告の右のような過失に起因するものであるから賠償額の算定上右過失を斟酌すべきである。

第五、右抗弁に対する原告の認否

一、抗弁一は否認する。

もし被告主張のように、原告運転の本件タクシーがその車体が歩道と直角になるような位置で停車したのであれば、本件バスは右タクシーの車体左側面に衝突したはずであるが、事実はこれに反し車体右後部に追突したのである。被告の主張によれば、本件バスは約二〇メートル余の車間距離を保持して時速五〇キロメートル以内で本件タクシーに追従して進行していたというのであるから、仮に本件タクシーが歩道上の客の直前で左折急停車したものであるとしても、時速五〇キロメートルで走行中の車輛の制動距離は普通二〇ないし二三メートルである以上、本件タクシーの急停車を認めて直ちに急制動の措置をとつておれば、本件追突事故は避けられたはずである。しかるに、本件タクシーは車体右側後部に追突された衝激により約七・八メートル跳ねとばされているのであるから、本件バスは制限時速五〇キロメートルを遙かにこえる高速度で走行していたにもかかわらず安全車間距離を保持していなかつたうえ、神之田が前方注意を怠つたものといわなければならず、結局、本件事故は神之田の全面的過失によつて惹起されたものである。

二、抗弁二の示談の成立は認める。

三、被告主張の原告の過失は否認する。

第六、原告の再抗弁―示談の抗弁に対して

一、錯誤による無効

被告主張の示談契約における原告の意思表示は錯誤により無効である。すなわち、原告は本件事故の直後に金沢病院において診察をうけた際、医師から「一週間ほど安静にしておればよい。」といわれたのでその言を信じ日時の経過とともに完治しうる軽度の負傷と信じその認識のもとに右示談契約を結んだところ、後日本件受傷による重い後遺症(労災保険法に基く障害等級五級)のため生涯苦しまねばならないことが判明した。従つて、右示談契約における原告の意思表示には右のようにその重要な前提事実の認識に錯誤があつたから無効である。

二、解除条件の成就

原告は本件事故により受傷を軽度のものと信じていたところ、何んの予告もなく被告主張の日時に突如原告の勤務していた訴外クレセントタクシー株式会社に呼び出され、当時における原告の正確な受傷の程度、損害の範囲などについて何ら明確になつていない状況のもとにおいて、被告の従業員訴外草柳久行の求めるままに被告側においてすでに作成済みであつた示談書に署名したものであつて、右示談契約における今後本件に関してはいかなる事情が生じても双方決して異議申立、訴訟等いつさいしないことを確約する旨の約定は、右契約当時における原告の軽度の受傷が将来その程度以上には悪化し、後遺症の発生することがないことを暗黙のうちに前提としていたものであるから、このような場合、右約定には将来原告の症状の悪化、後遺症の発生、損害の著しい拡大など諸事情の発生したときは右のような諸事情の発生を原因として右約定を解消させる趣旨の条件すなわち解除条件が付されておつたものというべく、しかして前記のように原告はその後重い後遺症によつて苦しめられることとなり予測しえなかつた著しい損害を蒙ることとなつたのであるから、解除条件は成就し、本件示談契約は失効した。

第七、右再抗弁に対する被告の認否

すべて否認する。

第八、証拠〔略〕

理由

一、事故の発生

請求原因第一項は原告の受けた傷害の部位および程度を除いて当事者間に争いがなく、〔証拠略〕によると、本件事故により原告は頸椎鞭打ち障害および腰部捻挫の傷害を負つた事実を認めることができる。

二、被告の責任

(一)  自賠法三条の免責事由の存否

(1)  被告が本件バスを所有していること、訴外神之田義隆は被告の被用者であつて、本件事故は右神之田が本件バスを運転してその業務に執行中生じたものであることは当事者間に争いがないから、被告は自賠法三条にいわゆる運行供用者としての責任を負うべきところ、被告は同法条の免責事由の存在を主張するので、この点につき判断する。

(2)  〔証拠略〕を総合すると、本件事故現場付近の状況、事故発生の模様および事故発生に至るまでの本件バスの走行経過は次のとおりである。

神之田は九州方面への年末帰省客を運搬したのち、本件バスを名古屋まで廻送するため昭和四一年一月一日午前八時予備運転手五十嵐健市、車掌佐藤誠一とともに博多から本件バスに乗りこみ、途中右五十嵐と二時間ないし三時間ごとに交替して運転しながら東上し、同日午後一一時一〇分舞子で五十嵐にかわつて神之田が運転して東進し、本件事故現場の西方約七・八〇〇メートルのところにある大石川近くの信号機が赤にかわつて一旦停車した際、神之田は本件バスの直前に同方向に向かつて停車する本件タクシーのあることを認めたのであるが、信号が青にかわつて再び両車輛ともに発進したのち、いつたん本件バスは本件タクシーに相当距離を引き離されたものの神之田はバスの速度をあげて間もなく本件タクシーに近接し、右信号機のある地点から東方へ約七・八〇〇メートル進行して同日午後一一時三五分ごろ、事故発生現場の神戸市灘区下河原通一丁目六番地先国道二号線道路上にさしかかつたのであるが、右国道二号線道路は道路中央部に阪神電鉄国道線の軌道が敷設されており、その両側にそれぞれ三区分帯に区分された車輛通行帯のある道路であつて、本件バスは第二区分帯中央を時速約五〇キロメートルで走行していたが、おりから正月元旦の夜のことでもあつて他に通行する車輛はほとんどなく、本件バスの前方第二区分帯の右側寄りを本件タクシーがただ一台同方向に進行しているのみであつて、本件バスは右タクシーとの間に約二〇メートルの車間距離をおき、これに追従して進行していたところ、事故現場地点に至つて突如タクシーが速度を落してかなりの急角度で車道左側の歩道に接近しようとしたのを見て、慌てて急制動に近い制動をかけつつハンドルを右にきつたが間に合わず歩道とその車体の中心線とが少くとも三〇度以上の角度をなす位置で停車しかけていた本件タクシーの後部ナンバープレートの右側バンパーに本件バスの車体左前部を追突させ、その追突の衝撃により本件タクシーを歩道上に跳ねとばしたものである。

以上のとおり認められ、〔証拠略〕中右認定に反する部分は措信できない。

(3)  そこで、右認定事実を基礎にして本件バスを運転していた神之田の過失の有無を考えてみるに、神之田はおそくとも事故現場から七・八〇〇メートル西方にある大石川近くの信号機の手前で一旦停車した際、本件バスの直前を同方向に進行する本件タクシーのあることに気付いたが、信号が青にかわつて両車とも発進したのち、本件バスはいつたん本件タクシーに相当距離を引き離されたものの同人はバスの速度をあげて間もなくタクシーに近接し、事故現場手前にさしかかつたときには本件タクシーとの間に約二〇メートルの車間距離をおき時速約五〇キロメートルでこれに追従して進行していたものであるところ、〔証拠略〕によると、本件バスの時速五〇キロメートルにおける制動距離は二一ないし二三メートルというのであるから、本件バスがその直前を走行中の本件タクシーとの間に保持した約二〇メートルの車間距離は、もしも本件タクシーが走行中の位置のまま急停止したような場合においても、急制動の場合における空走距離の誤差を併せ考慮すると、これに追突するのを避けるため急制動措置をとるのに必要にして十分な距離ということはできないばかりでなく、また事故当時本件バスは博多から名古屋へ廻送中であつて乗客を搭載していなかつたとはいえ車体が大きく重量のある営業用大型バスで、ハンドル操作の難しい車輛なのであるから、右のような事態に直面した場合、突嗟にハンドルを右にきつて追突を避けるのに十分な車間距離を保持すべきところ、前記約二〇メートルの車間距離は本件バスが右方へ回避して追突を避けるのに十分な距離ということもできないのであつて、まして本件タクシーが第二区分帯のやや右側路面電車軌道寄りを走行しているのを神之田は認めていたのであるから、タクシーの性質上客の乗車、降車のため本件タクシーがいつ何んどき第二区分帯中央を進行中の本件バスの進路前方を横切つて、車道左端に接近し停車するかも知れないことは後続車の運転手として留意すべきことであるから、この点をも併せ考えると前記約二〇メートルの車間距離は到底本件タクシーに追突するのを避けるために必要にして十分な距離ということはできない。したがつて、神之田には安全車間距離不遵守の過失がある。

(4)  右に認定したように、本件事故の発生につき、本件バスの運転者神之田の過失があるから、その余の点につき判断するまでもなく被告には自賠法三条の免責事由が存しないものといわなければならない。

(二)  示談契約の効力

(1)  抗弁第二項については当事者間に争いがない。

(2)  原告は、右示談契約における原告の意思表示にはその重要な部分に錯誤があつたから示談は無効であるか、または解除条件付であつたところ条件の成就により示談契約は失効した旨主張するので判断する。

〔証拠略〕を総合すると、原告は本件事故の発生した日の翌朝になつて頸部および腰部に痛みを感じ、その後さらに頭痛や指、腕等の麻痺感に悩まされるようになつていつたが、事故直後に金沢灘病院で診察を受けた際医師から単に一週間ほど安静にして寝ておくようにといわれたこともあつて、前記各症状も日時の経過とともにやがて快方に向かうものと信じ、時には開業医の診察を受けることもあつたが主として湿布、膏薬の貼布等自宅療養を続けつつ、前記各症状による身体の苦痛をおして欠勤、早退しがちながらも従前どおりタクシー運転手の業務に従事して本件示談契約の成立した昭和四一年三月一六日に至つたものであるところ、右同日正午ごろ当日自宅で臥せつていた原告は突然その勤務先であるクレセントタクシー株式会社本社に呼び出され、そこで、被告の代理人草柳久行、右会社の事故係那波浩幸らの手によつてすでに作成されていた示談書に署名捺印するとともに、右草柳から治療費金一、九三〇円、見舞金三、〇〇〇円、合計金四、九三〇円の金員を受けとつたものであること、ところで、右示談契約の際、原告は自己の現症状が将来悪化し後遺症の発生することなど予想もせず、日時の経過とともに遠からず完治するものと楽観していたのであり、被告の代理人草柳においても右示談当日に至るまでの原告の症状の経過、勤務状況等にかんがみ、さらに当日原告から現症状を聞かされて、きわめて軽度の症状であるから後日悪化することはないものと信じていたこと、以上の事実が認められる。

そこで、右認定事実を基礎にして示談契約の効力を考えてみるに、示談契約における原告の意思表示には、その現症状が将来悪化し後遺症の発生するようなことはなく日時の経過とともにやがて完治しうる程度のきわめて軽症のものであることが前提にされていたものと解されるところ、〔証拠略〕によると、原告は同年五月一八日神戸赤十字病院で診察を受けたところ、鞭打ち症、腰部捻挫による重症と判明し、爾来同病院で通院治療をうける身となつたが、翌昭和四二年中には同病院のほか神大付属病院に計三回入院して後記の各手術をうけたものの、ついに後記後遺症の固定症状を残すに至つたものであることが認められ、従つて、前記示談の前提と異り、真実は原告の傷害はきわめて重大なものであつたのであるから、示談契約における原告の意思表示にはその重要な部分に錯誤があつたというべきである。しかして、いわゆる示談契約なるものの性質はこれを和解契約類似の一種の無名契約と解すべきところ、紛争の直接の対象たる将来の損害賠償請求権それ自体についてではなく、その前提事実たる原告の症状について錯誤があつたのであるから、かかる場合には民法六九六条の適用はないものというべく、結局、本件示談契約は要素に錯誤があるから無効である。

そうすると、原告の再抗弁は理由がある。

(三)  以上のとおりであつて、被告には自賠法三条の免責が認められず、示談もその効力なきものであるから、被告は原告の蒙つた後記損害を賠償すべき責任がある。

三、原告の損害

(一)  損害額

(1)  休業による収入損

〔証拠略〕によると、次の事実が認められる。

原告は大正一四年一月一日生の男子であつて本件事故発生当時クレセントタクシー株式会社のタクシー運転手として働いていたが、本件事故による受傷のため事故発生の日の翌日である昭和四一年一月二日から休職扱いとなつた同年五月一八日までは事故前の半数しか働くことができなかつた。その後は症状の悪化、入院手術等のため全く働いていない。事故前三カ月間の平均日給は金一、四三七円である。

後記後遺症の固定した昭和四三年九月二日の前日までの休業日数は計九〇五日となる。

よつて、原告が休業により失つた収入損は、右九〇五日に平均日給金一、四三七円を乗じた額金一三〇万〇、四八五円である。

(2)  後遺症による逸失利益

(イ) 〔証拠略〕によると、次の事実が認められる。

原告は本件事故によりうけた頸椎鞭打ち障害、腰部捻挫の傷害の治療のため昭和四二年一月神戸赤十字病院に一一日間入院して脳内出血の有無検査のため開頭手術をうけ、同年二月二一日から同年三月一八日までの二六日間神大付属病院に入院して第五、第六頸椎々間板剔出術ならびに固定術をうけ、同年一一月二一日から同年一二月一五日までの二五日間右大学病院に再度入院して第三、第四頸椎々間板剔出術ならびに固定術をうけ、その後同大学病院に通院したのち自宅療養につとめるも現に自律神経障害による頭痛、眼痛、喉頭部閉塞感、嘔吐感、両上肢の倦怠感が存し頸部の運動が不自由(左右への運動各一五度)であつて、昭和四三年九月二日同大学病院において右各症状が将来完全に消失する見込みはない旨の診断をうけたことが認められる。

ところで、右のように受傷の日時から症状が徐々に悪化し、一年後に始めて脳内出血の有無を検査するため入院し、その後さらに頸椎固定術等手術のため再度入院するという経過をたどつて後遺症が顕在化した場合においては、後遺症はおそくとも前記大学病院において原告の前記各症状が将来完全に消失する見込みはない旨の診断をうけた昭和四三年九月二日に固定したと解するのを相当とし、右時点においてはじめて賠償額の算定およびこれが履行も可能となるというべきである。

(ロ) 原告の前記後遺症状は自賠法施行令別表の障害等級表によれば第七級の神経系統の機能に著しい障害を残し軽易な労務以外の労務に服することができないもの及び第八級の脊柱に運動障害を残すものに類似するものと解すべきところ、原告は右症状固定時において四二才で自動車の運転技術以外特別の技能を有しないのであるが、右後遺症の結果運転業務に就くことは不可能であつて将来は特殊技能や体力を要しない軽労働に従事するのほかないものと認むべきこと、その他前記認定の諸般の事情を考慮すると同人の労働能力喪失率(収入喪失率)はこれを六〇パーセント認めるのを相当とする。かように原告は後遺症のため前記の労働能力を有するにすぎないのであるが、しかしその程度でも軽作業等に就き収入をあげうる機会は付与されていると考えられる。

(ハ) 原告がもし本件の傷害を受けなかつたならば、少くとも原告主張の昭和五三年九月二日(満五二才八月)までの間はタクシー運転手として前記平均給与を下らない収入をあげ得たものと推認すべきところ、右認定のとおりその職業能力を失い、他の軽作業による収益能力は従前の四〇パーセントにあたると認められるので、原告が症状固定の昭和四三年九月二日から同五三年九月一日までの一〇年間に失うべき労働能力低下による損害は一日金八六二円二〇銭の割合による三六五〇日分計金三一四万七、〇三〇円となるところ、これを昭和四三年九月二日現在の一時払いに換算すると、新ホフマン式計算法により各月ごとに年五分の割合による中間利息を控除(係数九七・一四五)した金二五四万八、〇六二円となる。

(3)  慰藉料

以上の事実によれば、原告は、本件事故のため肉体的精神的に多大の苦痛を受けたことが認められるところ、前認定のように神大付属病院等に合計三回六二日間にわたつて入院手術をうけたこと、前認定の療養期間、後遺症の程度、原告の年令、家族、職業等諸般の事情を勘案し、右苦痛に対する慰藉料は、金一五〇万円が相当である。

(4)  合計損害額

前記(1)ないし(3)の合計金五三四万八、五四七円。

(二)  過失相殺

〔証拠略〕を総合すると、原告は本件タクシーを運転して事故現場地点付近にさしかかつたとき、進路左側歩道上で手を挙げて停車の合図をしている乗客を発見したものの右停車の合図に気付くのが遅れたため、客の立つている地点にかなり接近してから後方に対する交通の安全を確認しないまま急拠ハンドルを左にきるとともに制動をかけ、ほとんど急停車に近い状態で停車しようとしたので、停車寸前における本件タクシーは歩道とその車体の中心線が少くとも三〇度以上の角度をなす位置にあつた。しかして停車寸前、後続の本件バスによつて車体後部ナンバープレート右側バンパーに追突され、本件タクシーは車道左側の歩道上に跳ねとばされたものである。以上の事実が認められ、原告本人尋問の結果、右認定に反する部分はたやすく措信できない。

そうすると、原告には、タクシーを運転中客の乗車のため車道左端に寄つて歩道沿いに停車するに際しては、まず後続車輛の有無を確認し、ことに左側後方を接近して追従してくる車輛のあるときは後続車輛の進路前方を横切つて接近せざるをえないのであるから、いつたん後続車との間に安全距離を保つなど適宜の措置をとりつつ、徐々に速度を落として歩道に接近し、これと平行の位置で停車し、後続車との接触追突事故の発生を避けるべき安全運転義務があるのに、これを怠り前記認定の挙動に出た過失があり、原告の右過失が本件事故発生の一因をなしていることが認められるので、被告の賠償すべき損害額の算定上原告の右過失を斟酌するを相当と認め、被告の賠償すべき額は原告の前記損害額の六五パーセントにあたる金額と認定する。すなわち、

(1)休業による収入損 金八四万五、三一五円

(2)後遺症による逸失利益 金一六五万六、二四〇円

(3)慰藉料 金九七万五、〇〇〇円

合計 金三四七万六、五五五円となる。

(三)  損益相殺

原告は自賠法による後遺症補償金七五万円、原告の元勤務先たるクレセントタクシー株式会社から前記休業期間中の給料として金一三万二、〇一八円、被告から見舞金等として金四、九三〇 合計金八八万六、九四八円の収入を得たことは原告の自認するところであるから、右金員を前記損害額から控除することとし、前記(二)で認定した(1)休業による収入損金八四万五、三一五円から右会社および被告より原告に支払われた計金一三万六、九四八円を控除し、同(二)の後遺症による逸失利益金一六五万六、二四〇円から右自賠法による後遺症補償金七五万円を控除すると、被告の賠償すべき原告の損害額合計は次のとおりである。

(1)休業による収入損 金七〇万八、三六七円

(2)逸失利益 金九〇万六、二四〇円

(3)慰藉料 金九七万五、〇〇〇円

合計 金二五八万九、六〇七円

(四)  弁護士費用

〔証拠略〕によると、原告は本訴提起につき弁護士中嶋徹に訴訟委任し、昭和四一年九月九日同弁護士との間で報酬金額は原告の得る利益の一割とする旨の契約を結ぶとともに右同日同弁護士に対し着手金一〇万円を支払つた事実が認められる。

ところで、交通事故の加害者が損害賠償義務の履行につき容易に応じない場合においては、被害者は訴を提起するほかなく、その場合弁護士に訴訟委任することが普通であつて、本件もまたその必要性が認められるので、本件弁護士費用の相当額は本件事故と相当因果関係のある損害と解すべきところ、右の相当額は神戸弁護士会所定の報酬等の基準額に照らし着手金および報酬として金三六万円と認められる。

四、結語

よつて、原告の請求は金二九四万九、六〇七円および内金一六八万三、三六七円(休業補償及び慰藉料)に対しては事故発生の日の翌日である昭和四一年一月二日から、内金一〇万円に対しては中嶋弁護士にこれを支払つた日の翌日である同年九月一〇日から、内金九〇万六、二四〇円(逸失利益)に対しては後遺症の確定した日の翌日である昭和四三年九月三日からそれぞれ完済に至るまで各年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める限度で理由があるからこれを認容し、その余の請求は失当としてこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九二条、仮執行の宣言につき同法一九六条を各適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 原田久太郎 竹田国雄 岡本多市)

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